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ある「ドロドロ本」著者の中国人の話

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以前、ある亡命中国人の著述家・P氏と会う機会があった。細かいプロフィールは伏せるが、在外華人社会では名のある人である(ただし、P氏は日本国外在住であり、日本国内でツイッターアカウントを解説したりTVに出たりしている人ではない)。

彼は中国語の演説や文章でキツいことを言っているが、総じて「まとも」な人だ。私が「現代の中国人の若者をどう思われますか? 彼らに中国民主化を担う期待は持てますか。もし持てるなら、どんな点があるでしょうか」と尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「近年、台湾や香港の若者(の学生運動)は素晴らしいものだよ。往年、日本に留学して革命に邁進した中国人留学生たちも素晴らしかった。ただ、現在の大陸の若者は在外留学生を含めて、共産党の統治下で考えをスポイルされているし洗脳されている。実に残念だ。だが、諦めずに少しづつ意識の変化を働きかけていくしかない。たとえ何十年かかってもね」

舌鋒鋭く中国共産党を批判していても、現実的な問題点はちゃんと理解しているらしい。

事実、P氏の語り口はメリハリがあり、惹きつけられるものがあった。主張にすべて同意するかはさておき、彼が往年の中国の学生運動で大勢の人間を動かした当事者であったことも納得がいく。

もちろん、中国で学生や知識人の多くが本気で民主化の実現を信じて街に出た時代からすでに約30年が経っている。怒れる青年であった運動のリーダーたちも、いまや見た目も中身もおじさんになり、なにより性格が丸くなった。こう言っては悪いが、今後の彼らが中国の国内政治に対して重要な中心的役割を担う可能性はほとんどない。

ただ、さすがにリーダークラスの人の心を覗き込むと、往年の猛火の残り火はいくつになっても消えない。P氏もまたそんな一人だった。

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↑北京の街にいたコスプレーヤー。現代の中国は政治問題よりも若者の興味を引くことがたっぷりとある世の中である(2014年8月安田撮影)。

◆◆


ところで、このP氏。日本でも何冊か一般書の形で著書を出しているのだが、かなり過激な題名と装丁で、個人的にはちょっと敬遠したい嫌中本みたいな本が多い。当の私自身、ある知人から彼を紹介された当初は、一連の著書への偏見から会う話を断ろうかと思ったくらいだった。

だが、普段は某国で暮らすP氏は、在外民主化人士のなかでは比較的大物であり、その国の選挙権まで持つ極めて合法的な身分、まずまず大きな企業を経営するなど経済的にも困っていない。中国共産党に対してこそ鋭い口調で批判しているが、その素顔は穏健な性格と現実的な分析力を持った中国的知識人だ。

亡命中国人としてはかなり順調な後半生を歩む人が、なぜいまさら日本でアレな感じの本を売る行為に手を染めたのか。自分のキャリアに傷がつくことは考えなかったのか――? その謎は間もなく解けた。

私はP氏と仲良くなり、2時間ほど話し込む機会を得た。そこで判明したのは、P氏がほとんど日本語ができないことと、日本で彼の名で刊行された著作がほぼすべて既刊の中国語書籍の「翻訳書」であることだった。

つまり、P氏の著作は激烈な嫌中本だと思いきや、正体はおおむね普通の本だったのである。

思わぬ方面に迷惑がかかるとよくないのであくまで例えとするが、彼の中国語の原著のタイトルや装丁が仮に以下のような感じだったとする。確かに原著でも中国人が「不愉快」だとは言っているが(あくまでも例えだ)、そもそもP氏自身も中国人であり、まあそう言っていても変な感じはしない。

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だが、その本の日本版の「翻訳書」はだいたい下記のようになる(しつこいが、あくまでも仮の例えだ)。

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もちろん、私は日本市場向けに原題を変える行為自体が悪いとは言わない。地味な原典を目を引く装いの翻訳版に変えて紹介する行為は、むしろ関係者のプロの腕の見せどころだ(例えば映画『天使にラブ・ソングを…』が原題の『Sister Act』(シスターの行為)のままで公開されていたら、きっと日本であそこまでヒットしなかったに違いない)。

また、私は中国の悪口を言ってはダメだとか、「ドロドロした嫌中本」を一切出してはいけないとも思わない。著者が日本人なり、原稿を綴れるくらい日本語ができる中国人(台湾人でも韓国人でもそうだ)なら、自分の名前がついた本や記事をどういう形で世に出すかは本人の責任で判断するべきことだ。いい大人の商業活動なんだから当たり前である。

だが、中国・韓国・親日外国人あたりの話題に関する日本国内のテクストを知らず日本語もできない外国人の著作に、この手の「ドロドロ系」の演出を加える行為は果たしてフェアかという気はする。もちろん日本側の関係者は、著者にちゃんと説明をしているはずだとは思うけれど、そもそも相手は文化を異にする外国人だ。

(例えば日本人の私たちが『困った日本人』という日本社会をボヤく本を書いて、それを自分が読めない韓国語やインドネシア語で翻訳出版された際に『最低最悪の日本人 祖国侵略者のどうしようもない民族性』というタイトルで日の丸が表紙の本にされていたとして、たとえ事前に相手側から説明を受けたとしても先方の刊行意図をちゃんと把握できるだろうか?)


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また、上記に例として挙げた原書の『不愉快な中国人(仮)』が、仮に中国人の心性をぼろかすに批判した内容だったとしても、それでも原文の表現を読むと受ける印象は違ってくる。

昨年話題になった「保育園落ちた日本死ね」の話ではないが、書いた本人は本気で自国や自民族の滅亡を望んでいるわけではなく、なにか深刻な問題を訴えたくてキツい表現で自国の社会や庶民への憤りを示しているだけなのだ。

以下、上記の話に関連してちょっと引用しておこう。

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安田 (略)中国政府に批判的な中国人が現代の日本で言論で食っていく場合、いわゆる嫌中言説というか、右派の読者が喜ぶことを書く方向に行かざるを得ない場合が多いんですよ。真っ赤な表紙でドロドロした題名の書籍を出版したり、国家主義的な論者の方と連名で雑誌の見出しを飾ったりですね。そういう立場にしか商業的な需要がないので。

劉 保守的な媒体でも、自分の意見を載せてくれるならそれでいいのではないでしょうか。誰かに自分の思いが伝わるなら、形にこだわることはないでしょう?(略)

安田 もちろんその通りです。ただ、現実は残酷です。中国政府の批判だけじゃなく、自分の民族(=中国人)を日本人の視点から蔑視するような言説や、歴史修正主義的な言説への加担を求められたり、見出しや表紙の編集を通じて「そういう主張」を作られてしまう場合も多いんですよ。(略)

(略)

劉 本当に心が痛いです。中国人自身が自分の民族の精神的な宿痾みたいなものをえぐって批判しようとする言説と、無責任な中国蔑視論は本当は異なるものであるはずですから。

出典:安田峰俊・劉燕子 「嫌中か親中か」でしか中国を語れない、日本の閉塞 (講談社現代ビジネス)

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たとえ中国語の原書では「自分の民族の精神的な宿痾みたいなものをえぐって批判」する文章を書いていても、昨今の日本では「無責任な中国蔑視論」に変えられて世に出てしまう。その気になれば魯迅の本だって、邦題を変えて装丁やオビを工夫すればそういう雰囲気の本に仕立てることが可能だろう。結果として傷がつくのは本人の名誉だ。

私はP氏と初対面であり、自分で責任が取れない問題に無用なトラブルの種をまくのは好ましいことでもないと思ったので、日本語ができる中国人への相談することを勧めただけでそれ以上の詳しい説明は控えた。P氏は上機嫌で山手線に乗り、夕方の別の会食の予定先へと向かっていった。

……なんともモヤモヤした気持ちが残る、ある日の夕方だった。


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 上記はメルマガの記事の一部を大幅に改稿・再編集したものです。

【書評】「いまさら」日本に留学する中国人の素顔

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<構成>
プロローグ
第一章 東大、早稲田…… 日本に留学したい本当の理由
第二章 留学生を支える予備校ビジネスの実態
第三章 過酷すぎる中国の大学受験戦争
第四章 一八歳人口の減少におびえる日本の大学
第五章 なぜ彼らは日本で働きたいのか
第六章 ダイバーシティをめざす日本企業に足りないもの
第七章 日本を選んだ中国人エリートの先駆者たち
エピローグ
あとがき

<簡評>
ここ数年、私は天安門事件を経験した世代の中国人がいま何を考えているのかに興味があり、50歳前後の中国人を見つけるたびに質問責めにしている。

彼らのなかには日本への留学歴がある人も多い。日本や中国でインタビューを繰り返すたびに印象付けられるのは、(事件や現体制についていかなる立場を取るにせよ)現在の日本で出会う若い中国人留学生とは比較にならないほどの、彼らの地頭の良さだ。

これは彼らの「年の功」だけが原因ではない。1989年ごろの中国の大学進学率は2.5%ほどで、留学を目指すような大学生はもともと極めて優秀な層に限定された。一方、当時の日本はジャパン・アズ・ナンバーワンの時代だった。そんな「一等国」が中国のすぐ隣にあり、最先端の知識を与えてくれるように見えた。なので、かつては本国でも一線級の人材が日本に来ていたのだ。

ゆえに現在40代後半から50代くらいの中国人の日本語人材は、平均的に見て非常に優秀な人が多い。近年の日本社会で起業家や学者・外国人ジャーナリストなどとして活躍している中国人も、ほとんどすべてがこの世代に集中している。

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↑香港、尖沙咀地区にあった六四記念館の展示品。現在はすでに閉館。
 

……だが、時代は流れる。

現在の日本に(東大大学院などの最高峰はある程度は例外としても)一流の中国人が学びに来るケースは大きく減った。

彼らは日本の頭越しで欧米圏に向かい、その傾向は長期的かつ不可逆的に継続している。私自身、大学入学直後の2000年と大学院修了時の2006年のわずか6年間でも、身近な中国人留学生の姿からこの傾向を感じてきた。

ならば、「一流」人材が猫またぎをするようになった日本にいまでもやってきて学び、就職する中国人はどんな人々か。彼らは日本の何に魅力を感じているのか。それをうかがい知れるのが本書だ。

(ちなみに書中で筆者は「確かに日本に来る留学生は超一流ではないかもしれません。でも、二流というわけでもない。そこそこのエリート、つまり一・五流ですよ」という東大の教授のコメントを引用して、現在の中国人留学生の質についてフォローを入れている(取材先や日本人の読者への配慮ゆえだろう)。ただ、本書を注意深く読めば、上記に指摘したような話はやはり読み取れるはずである)。

◆◆

著者の中島恵氏は近年、「中国人エリート」を主題に堅実な著作を積み上げてきた。



 

良質な中国ウォッチャーは、中国という巨大すぎる対象を読み解く際に、なんらかの理解の軸を設定してそこから論を展開する。著者の場合、この「軸」に相当するのは、中国が庶民にとっての選択肢が限られた激烈な競争社会で、とにかく「忙しい」「疲れる」国であることへの着目だ。

中国は就職や大学入試はもちろん、持たざる民にとっては鉄道キップ1枚の購入ですら、それを勝ち取るために膨大なバイタリティと苦労が必要とされる。ゆえに中国人は、みんな図々しくて疑い深くなる。不公平な競争社会で生き残るにはコネが重要なので、中国人は親戚や友人と、日本人とは比較にならないほど暑苦しい人間関係を築いて自衛する。

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↑上海の駅にて。いつもの光景だ。


そんな大変な社会で鍛えられた中国人のふてぶてしさとネットワーク構築力は、個々人がバラバラになって終わりなき競争に放り込まれる新自由主義的な現代世界の風潮とたまたま相性が良く、図らずもグローバルに通用する強みとなった。現代の世界で賢い中国人が勝ち組になっているのは、それゆえのことだ。

……しかし、当然ながら中国人のなかにも、押しが弱かったり人付き合いが苦手だったりする、根性のない人がいる。競争に飛び込むことを恐れ、また敗れて落ち込む人もいる。

そんな草食系中国人たちにとって、ホッとできる心のオアシスは隣国にある。すなわち日本という国だ。

日本は日常生活は便利極まりなく、清潔さと安全性は極めて高い。社会は水を打ったように静かであり、世の中はなかなか変化しない。

ギラギラせずに分相応に暮らし、なんとなく生活するライフスタイル(中国でそれが得難い以上、これは人によっては大きな「憧れ」だ)を望む人にとって、日本ほどよい国はないという話になる。

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本書から見える中国人留学生たちの姿もまた、東大院進クラスの「最上流」のエリートを除けば、おおむね草食系揃いだ。

彼らが日本での学びを選ぶ動機は、日本のんびりした社会と気質が合う、アニメが好きである、そして中国で入試に失敗して学歴ロンダリングを目指す……、といったところ。一昔前の苦学生の姿とは程遠い。

中国の大学入試は、例によって激烈な競争である。その具体的な話は書中の記述に譲るが、本人や親が、日本の名門大学に進むほうがまだしも負担が少ないと考えるのは理解できる。

海外留学させるなら、日本は欧米に比べて学費が安いし、なによりも近い(なので親が遊びにこられる)。語学のハードルはあるが、日本には中国人向けの大学受験予備校が乱立しており、カネを積んで特訓させればそこそこの大学に受かる。大学側も、日本人の若年層人口が減少するなかで海外からの学生の獲得を望んでいる。

本書から垣間見えるのは現代の中国人留学生たちのそんな姿だ。

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本書から、いわゆる「日本スゴイ論」や「日本はこんなに世界から愛されている」といったメッセージだけを受け取るのは、ややもったいない読み方だろう。

意地悪に解釈するなら、かつてスゴかった日本が、現在は必ずしも「スゴくない」「成長しない」テンションの低い社会となったことが、選択肢としてそうした空間を好む中国人を引き寄せているという見方だってできるのだ。

「はたして日本は今後も彼らから『選ばれる国』でいられるのか」

本書はあとがきでこう結んでいる。自分たちが選ばれる理由をどう理解し、どの部分の魅力を伸ばし、どのように外部へ向けてアピールするか。今後の日本の課題を考えさせられる本だった。


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※上記はメルマガ「つれづれ亜州観望記」2016年12月06日配信号のコンテンツの一部を再編集したものとなります。 

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