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WELQ問題と「フリーライターになる方法」

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昨日12月27日にメルマガの最新号を出したところ、メインコンテンツとは別の部分の「雑記」にやたらに反響があったので、ブログに載せてみることにする。

近ごろ話題のWELQ問題、オチのない話ながらこういう感想もあるということで……。

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プロ野球チームを保有する大手IT企業DeNAが、医療情報サイトwelqをはじめ複数の情報サイト上で、転載に近い内容を含む不確かな記事を多数配信していたことが問題視されている。

同社はウェブサービス上で、一文字1円以下という極めて安価な報酬て記事執筆者を雇い、ネット上の既存の情報を参考にまとめさせていた。Googleなどのアルゴリズムを研究し、正確性に欠けた大量の医療関連記事を検索エンジンの結果上位に表示させ、アクセスを集めていたとされる。

法的には"グレー"の範囲におさまる行為とはいえ、道義的には問題が多く、また原稿も他サイトの情報をつまみ食いするパクリに近い手法によって作成されていた。事実上のパクリ原稿の製作過程をマニュアル化してライターに通達し、組織的に反道義的な原稿を量産させていたとも指摘されている。




ちなみに、この手の記事の執筆者は「ライター」と呼ばれてはいるが、彼らの仕事内容は、足を使った取材や文献調査などが必要とされる出版社系のウェブメディアや雑誌に寄稿するライターのそれとは大きく異なる。その仕事は、人工知能の技術がもう少し進捗すれば代替が可能な種類の「作業」であり、実質的には単純労働者に近い。

往年、母さんが夜なべ仕事でおこなっていた1台5円のチョロQの組み立てのようなお茶の間の内職が、現代風にデジタル化されたものだとイメージしてもいいだろう。下記の記事を読めば実態を想像しやすい。


こうしたデジタル内職の従事者たちに対して、発注者側は単純労働者を「ライター」、機械的作業を「執筆」、文字データ製品を「原稿」といったギョーカイっぽい名称に置き換えることで、薄給で単純作業を受注する人々に擬似的なやりがいを与えようとする。受注者側もまた、将来の「ライター」としての飛躍を漠然と夢見て、劣悪な文字情報の作成と拡散に精を出すのである。

ちなみにこうして作られた記事の責任の所在については、DeNAをはじめ「『誰でも登録して記事を書ける』というような仕組みになっていて、書いた記事の法律上の責任などはライター個人が背負う、みたいな形に規約上なっている」(byヨッピー氏)という。

単純労働者を薄給でやりがい搾取し、トラブルが発生すればトカゲの尻尾切りという、わが国のあちこちでよく見られるいつもの構図だ。

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さて、本件は中国とほとんど関係がない。私がこのニュースにわざわざ関心を示したことを不思議に思われる方もいるはずだろう。

しかし、実はこの話は個人的には非常に複雑な気持ちになるのである。なぜなら私自身、かつて数年間にわたって、この手のデジタル内職の仕事を手掛けていたことがあるからだ。

ちょうど10年前の2006年9月、私は月収十万円足らずの塾講師のアルバイトで食いつないでいた。もともと学生時代から文章に関係した仕事をしたかったが、就活のときに上京して新聞社や出版社の入社試験を受けるだけのお金がなく、実家に近い京都の部品メーカーの国際営業部に就職、やはり合わなくて5か月で辞めてしまっていたからだ。

ライターになりたいが、その方法がよくわからない。ひとまずAmazonで樋口聡の『フリーライターズ・マニュアル』を買って読んでみると、「駆け出しのうちはどんな仕事でもやれ」と書いてあったが、私の地元の滋賀県には出版社など皆無であり、そもそも駆け出す以前の問題だ。一昔前なら、ここで諦めるか、一念発起して上京するかのいずれかを選ぶことになっただろう。



だが、デジタルっ子であった私はとりあえずネットで検索してみることにした。すると見つかったのである。「ライター募集」をうたうネット掲示板とか、当時流行していたmixiのライター募集コミュニティとか、そういうのだ。驚くべきことに、出版社との繋がりが一切ない経験ゼロで地方在住のライター志望者でもウェブ経由で仕事を発注してもらえて、未来につながるキャリアアップができるという。

いざ実際に応募してみたところ、肩こりを予防できる健康法について書けとか消費者金融のお得(?)な利用法について書けとか、いかにもうさんくさい内容の案件を打診されたが、私はライターになりたかったのでやってみることにした。

これらはどうやら、SEO対策を施したアフィリエイト収入目的のブログや、ネット上で有料販売される情報商材に掲載することを目的とした文章らしく、多くは1文字0.5円~1円くらいの仕事であった。

もっとも、怪しい健康法であれサラ金の利用法であれ、まったく知らない分野についてきっちり下調べをして確実な情報を書こうとすれば、慣れないうちは2000字くらいの記事でも2時間ほどかかる。時給に換算するとわずか500円だ。

(※はるか後になって知ることだが、ほんらい出版業界において記事の原稿料は、原稿用紙1枚か誌面1ページあたり、もしくはウェブ記事の場合は1本換算が普通である。まともな原稿について「1文字〇円」という不思議な計算方法がとられるケースは、翻訳などを除きまず見られない)。

当時はまだ、この手の記事を発注しているのは零細のウェブ企業(かどうかすらも疑わしい謎の何か)ばかりであり、現在問題となっているDeNAやサイバーエージェントのような大規模かつシステマティックな発注はなされていなかったと思う。

ただ、私のようにコネも技術もなければ相場感覚も知らない物書き志望のアホなワナビーを「ライター」だとおだてることで、格安で文字データ(“原稿”とさえ呼べない)を提供させる方法は、この時代にすでに確立しはじめていたようだ。

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こうした仕事に対して、受注側がとれる戦略は決まってくる。下調べや文体の吟味の手間をはぶいて制作スピードをアップさせることと、内容を薄めて文字数を増やして支払額を少しでも引き上げることだ。また、一気に大量の案件を受注することで、薄利を分量のボリュームで補うという、鴻海精密工業の中国工場が1台4ドルの加工賃でiPhoneを何百万台も組み立てるような手法も取らざるを得ない。

私の場合、(さすがに良心がとがめたので他サイトの丸ごとのコピペはやらなかったが)クオリティを無視すればほどなく1000文字を最速15分くらいで書くようになった。

しばらく経つと、仕事を上手く回せるようになり、単価のやや高い仕事だけを狙って取るようになったので、仕事の質と制作時間を値段相応に上げなおすことができた(ちなみに良心的な価格で発注してくれたある会社には人徳のある人がおり、いまだに苦労していたころの心の師匠として感謝している)。

やがて半年ほど後、1本1000文字あたり数千円の仕事を400本くらい一気に受注し、今度は自分がライター掲示板で発注する側になってネット上のライター志望者たちに1文字0.8~1円くらいで文章を書かせて、差額を(もちろん税金は引いた上だし、私もリライトの労働はおこなうのだが)まるっぽ儲けたこともある。

※もっとも、さすがにそこまで旨い話は1度しかなく、その後は基本的には書く側ばかりであった。



◆◆

その後、私は2007年春に上京してから3年間ほど、退職が事実上禁止されていて住居費交通費の手当もない月収18万円の非正規の職場での勤務(←つまり2度目の就職も失敗したわけである)を余儀なくされた。さいわい時間の余裕だけは比較的あったので、上記のような自称ライター生活を引き続きおこなうことにした。

東京には出版社がたくさんあるっぽかったが、彼らは私の日常とは隔絶した雲の上に存在する謎の組織である。言うまでもなく私はそこにアクセスする手段を持たなかったので、編集プロダクションという下請け会社を経由して1000文字あたり3000~5000円ぐらいの原稿を書くようになった。コンビニに売ってある500円くらいのムックの最後のページを見て、小さな文字で「編集・制作」とか書いてある会社に電凸すると外注の仕事をもらえるのである。

ほか、上記のネット原稿の仕事も、単価がやや高そうな案件だけを選んで並行して続けた。編プロ経由の仕事ではエロ記事も裏モノ系のアングラ潜入記事もネトウヨ煽り記事も書いたし、ネット記事ではパワーストーンの効能や占いの結果なんかも書いた記憶がある。「萌えあがる募集若妻」というAVのシリーズのレビュー20本くらいを一晩で書いたときは言いしれぬむなしさが心にこみあげたが、就職に2回失敗して履歴書を汚したライター志望のフリーター(しかも奨学金による数百万円の債務持ち)というのは我ながら明らかに社会的にダメな人だと思ったので、まあ仕方ねえやと納得していた。

(ちなみに2008年の夏にテレビで北京五輪を見ながら書いた三国志のコンビニ売り歴史ムックの原稿が、私の中国関係の最初の仕事である。あのときは結構うれしかったものだ)

ただ、以前よりはランクアップしたものの、下請け会社経由の仕事は未来がなさそうだったし、自分の名前が紙面に大きく載るような署名記事を書く機会もまず訪れない。モヤモヤしながら、ひとまずブログをやってみたところそれが大当たりし、途中から書籍化を狙って更新し続けていたら、2008年の末にフリー編集者の堀田純司さんから講談社で本を出さないかとオファーをもらった。

その後も担当編集部が2回連続で潰れたりとか紆余曲折があったがひとまず割愛し、2010年に『中国人の本音』(講談社)を出版する。やがて、私はいつの間にか大手の出版社からダイレクトに記名の原稿を頼まれるようになり、取材費をつけていただいて中国や台湾に出張に行けるようになり、好きなことをノンフィクションのテーマに選んで自由に書けるようになって、奨学金も繰り上げ返済して現在に至っている――。

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↑2015年5月、小学館『SAPIO』の取材で陝西省に行った際、寄り道して兵馬俑をはじめて見ました(写真は安田撮影)。


とまあ、私はそういう迂遠すぎるプロセスを踏んで一応はプロの物書きになった。それゆえに、昨今のwelqの話はどうしても複雑な思いが先に立つ。

『はてな』などを見ていると、welqに寄稿するようなウェブライターを「本物のライターとは呼べない」とバカにするような意見が目立つ。そして、これらの指摘は圧倒的大部分において事実である。ただ、私自身がそういう世界をスタートにして(おそらく)”本物のライター”と呼んでよさそうな職業に就いた人間である以上、心の中でかのワナビーの群れを弁護したくなる気持ちも沸く。だって、地方に住んでいたり、育児や介護など生活上の負担が存在したり、就職先選びに失敗したりして業界とのコネも知識もまったく持っていない弱き者は、こうでもしないとライターを名乗れないのだから仕方ないではないか。

一方、DeNAに対しても思うところはある。曲がりなりにも上場企業が、他所の情報をつまみ食いしてコピペする作業を組織的に推奨したという、オリジナルの情報源(著作権者)に対する権利保護意識の甚だしい欠如はまったく弁護できない。ワナビーの夢を利用したやりがい搾取的なビジネスも明らかに悪辣だ。ただ、かつては似たような仕事に携わっていた者としては、「上手くやったなあ」「大企業がやればあそこまで大々的にやれるものだったのか」という気も多少はしなくもない。

出版業界が先細りして「まともな」寄稿先が減る一方で、ワナビーの絶対量は決して減ることはない。しかもネットが普及したことで、検索エンジンにヒットすることを目的とした極度に安価な文字データの需要だけは高まった。加えて良心を捨ててコピペまがいの手法を駆使すれば、情報の入手にかかる時間と金銭のコストを限りなくゼロに近づけられるようにもなった。

昨今のキュレーションメディア問題というのは、こうした過渡期の時代の鬼子なのだろうと思っている。


 


……ちなみに以下は余談に余談を重ねる話ながら、4か月ほど前にある全国紙の文化部から「現代のノンフィクション作家の『書き続ける』理由」というテーマで取材を受けたことがある。

そこで私がノンフィクションの書き手になった経緯を尋ねられたので、上記の話を身を乗り出して述べたところ、上品な文化部の記者氏が傍目にも明らかにドン引きしてしまい、現在にいたるまで私のインタビュー記事が某クオリティペーパーに載る気配がさっぱり見られない。

だが、現実とは往々にしてそんなものだったりするのである。



【書評】「いまさら」日本に留学する中国人の素顔

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<構成>
プロローグ
第一章 東大、早稲田…… 日本に留学したい本当の理由
第二章 留学生を支える予備校ビジネスの実態
第三章 過酷すぎる中国の大学受験戦争
第四章 一八歳人口の減少におびえる日本の大学
第五章 なぜ彼らは日本で働きたいのか
第六章 ダイバーシティをめざす日本企業に足りないもの
第七章 日本を選んだ中国人エリートの先駆者たち
エピローグ
あとがき

<簡評>
ここ数年、私は天安門事件を経験した世代の中国人がいま何を考えているのかに興味があり、50歳前後の中国人を見つけるたびに質問責めにしている。

彼らのなかには日本への留学歴がある人も多い。日本や中国でインタビューを繰り返すたびに印象付けられるのは、(事件や現体制についていかなる立場を取るにせよ)現在の日本で出会う若い中国人留学生とは比較にならないほどの、彼らの地頭の良さだ。

これは彼らの「年の功」だけが原因ではない。1989年ごろの中国の大学進学率は2.5%ほどで、留学を目指すような大学生はもともと極めて優秀な層に限定された。一方、当時の日本はジャパン・アズ・ナンバーワンの時代だった。そんな「一等国」が中国のすぐ隣にあり、最先端の知識を与えてくれるように見えた。なので、かつては本国でも一線級の人材が日本に来ていたのだ。

ゆえに現在40代後半から50代くらいの中国人の日本語人材は、平均的に見て非常に優秀な人が多い。近年の日本社会で起業家や学者・外国人ジャーナリストなどとして活躍している中国人も、ほとんどすべてがこの世代に集中している。

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↑香港、尖沙咀地区にあった六四記念館の展示品。現在はすでに閉館。
 

……だが、時代は流れる。

現在の日本に(東大大学院などの最高峰はある程度は例外としても)一流の中国人が学びに来るケースは大きく減った。

彼らは日本の頭越しで欧米圏に向かい、その傾向は長期的かつ不可逆的に継続している。私自身、大学入学直後の2000年と大学院修了時の2006年のわずか6年間でも、身近な中国人留学生の姿からこの傾向を感じてきた。

ならば、「一流」人材が猫またぎをするようになった日本にいまでもやってきて学び、就職する中国人はどんな人々か。彼らは日本の何に魅力を感じているのか。それをうかがい知れるのが本書だ。

(ちなみに書中で筆者は「確かに日本に来る留学生は超一流ではないかもしれません。でも、二流というわけでもない。そこそこのエリート、つまり一・五流ですよ」という東大の教授のコメントを引用して、現在の中国人留学生の質についてフォローを入れている(取材先や日本人の読者への配慮ゆえだろう)。ただ、本書を注意深く読めば、上記に指摘したような話はやはり読み取れるはずである)。

◆◆

著者の中島恵氏は近年、「中国人エリート」を主題に堅実な著作を積み上げてきた。



 

良質な中国ウォッチャーは、中国という巨大すぎる対象を読み解く際に、なんらかの理解の軸を設定してそこから論を展開する。著者の場合、この「軸」に相当するのは、中国が庶民にとっての選択肢が限られた激烈な競争社会で、とにかく「忙しい」「疲れる」国であることへの着目だ。

中国は就職や大学入試はもちろん、持たざる民にとっては鉄道キップ1枚の購入ですら、それを勝ち取るために膨大なバイタリティと苦労が必要とされる。ゆえに中国人は、みんな図々しくて疑い深くなる。不公平な競争社会で生き残るにはコネが重要なので、中国人は親戚や友人と、日本人とは比較にならないほど暑苦しい人間関係を築いて自衛する。

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↑上海の駅にて。いつもの光景だ。


そんな大変な社会で鍛えられた中国人のふてぶてしさとネットワーク構築力は、個々人がバラバラになって終わりなき競争に放り込まれる新自由主義的な現代世界の風潮とたまたま相性が良く、図らずもグローバルに通用する強みとなった。現代の世界で賢い中国人が勝ち組になっているのは、それゆえのことだ。

……しかし、当然ながら中国人のなかにも、押しが弱かったり人付き合いが苦手だったりする、根性のない人がいる。競争に飛び込むことを恐れ、また敗れて落ち込む人もいる。

そんな草食系中国人たちにとって、ホッとできる心のオアシスは隣国にある。すなわち日本という国だ。

日本は日常生活は便利極まりなく、清潔さと安全性は極めて高い。社会は水を打ったように静かであり、世の中はなかなか変化しない。

ギラギラせずに分相応に暮らし、なんとなく生活するライフスタイル(中国でそれが得難い以上、これは人によっては大きな「憧れ」だ)を望む人にとって、日本ほどよい国はないという話になる。

◆◆

本書から見える中国人留学生たちの姿もまた、東大院進クラスの「最上流」のエリートを除けば、おおむね草食系揃いだ。

彼らが日本での学びを選ぶ動機は、日本のんびりした社会と気質が合う、アニメが好きである、そして中国で入試に失敗して学歴ロンダリングを目指す……、といったところ。一昔前の苦学生の姿とは程遠い。

中国の大学入試は、例によって激烈な競争である。その具体的な話は書中の記述に譲るが、本人や親が、日本の名門大学に進むほうがまだしも負担が少ないと考えるのは理解できる。

海外留学させるなら、日本は欧米に比べて学費が安いし、なによりも近い(なので親が遊びにこられる)。語学のハードルはあるが、日本には中国人向けの大学受験予備校が乱立しており、カネを積んで特訓させればそこそこの大学に受かる。大学側も、日本人の若年層人口が減少するなかで海外からの学生の獲得を望んでいる。

本書から垣間見えるのは現代の中国人留学生たちのそんな姿だ。

◆◆

本書から、いわゆる「日本スゴイ論」や「日本はこんなに世界から愛されている」といったメッセージだけを受け取るのは、ややもったいない読み方だろう。

意地悪に解釈するなら、かつてスゴかった日本が、現在は必ずしも「スゴくない」「成長しない」テンションの低い社会となったことが、選択肢としてそうした空間を好む中国人を引き寄せているという見方だってできるのだ。

「はたして日本は今後も彼らから『選ばれる国』でいられるのか」

本書はあとがきでこう結んでいる。自分たちが選ばれる理由をどう理解し、どの部分の魅力を伸ばし、どのように外部へ向けてアピールするか。今後の日本の課題を考えさせられる本だった。


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※上記はメルマガ「つれづれ亜州観望記」2016年12月06日配信号のコンテンツの一部を再編集したものとなります。 

【書評:毛沢東とトランプの共通点は?】中野信子『サイコパス』

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サイコパス (文春新書)
中野 信子
文藝春秋
2016-11-18




<構成>
はじめに 脳科学が明らかにする「あなたの隣のサイコパス」
第一章 サイコパスの心理的・身体的特徴
第二章 サイコパスの脳
第三章 サイコパスはいかにして発見されたか
第四章 サイコパスと進化
第五章 現代に生きるサイコパス
第六章 サイコパスかもしれないあなたへ
おわりに

<簡評>
気鋭の脳科学者の著書。硬いタイトルに反して極めて一般向けの内容で読みやすい。個人的にもこの手のテーマは好きである。
まずは本書の「はじめに」で紹介されている、サイコパスの特徴を以下に列挙しよう。

・外見や語りが過剰に魅力的で、ナルシスティックである。
 
・恐怖や不安、緊張を感じにくく、大舞台でも堂々として見える。 
・多くの人が倫理的な理由でためらいを感じたり、危険に思ってやらなかったりすることも平然とおこなうため、挑戦的で勇気があるように見える。
 
・お世辞がうまい人ころがしで、有力者を味方につけていたり、崇拝者のような取り巻きがいたりする。 
・常習的にウソをつき、話を盛る。自分をよく見せようと、主張をコロコロと変える。 
・ビッグマウスだが飽きっぽく、物事を継続したり、最後までやり遂げることは苦手。 
・傲慢で尊大であり、批判されても折れない、懲りない。 
・つきあう人間がしばしば変わり、つきあいがなくなった相手のことを悪く言う。 
・人当たりはよいが、他者に対する共感性そのものが低い。 
・(※これ以外に「異性関係・性的関係の放縦さ」も入る)

私は上記を一見した瞬間に「毛沢東」という名前が浮かんだが、実際に本書を読み進めると毛沢東のサイコパス属性が指摘されており、非常に納得してしまった。「私は天下の大乱を好む」と言い切り、自分の言動によって何千万人の死者が出ようと意に介さなかった毛沢東は、確かにサイコパスと呼んでよい人格的特徴の持ち主だ。

また、書中に指摘こそなかったが、中国のもう一人の「建国の父」である孫文も、生前にはワンマン気質と大ボラ吹きと重婚(しかもロリータ・コンプレックス)で有名であり、サイコパスに分類されてもおかしくない人物だったと考えていい。ある意味において、現代中国は2人の巨大なサイコパスによって作られた国だという見方もできる。

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もっとも、中国の政治家ばかりをやり玉に挙げるのは片手落ちだろう。サイコパスの特徴と合致する人物は(下記のリンク先の記述が真実であれば)、昨今話題の「例の候補者」についても当てはまる。


> トランプはどんな話題でも5分も集中できないのです。自己顕示欲を満足させる話題であればともかくですが、それにしたって…
 
> ビジネスの電話で、トランプは時に相手をおだて、時に威張り散らし、そして時に激怒した。だが、それらはすべて計算づくだった。
 
> 彼は、いついかなるときでも自分が言うことはすべて本当であるか、あるいは少なくとも本当であるべきだと信じてしまう能力をもっているのです

上記の『WIRED』記事は、2017年1月から米国大統領に就任するドナルド・トランプを「Sociopath (ソシオパス;社会病質者)だと指摘する。アメリカのリベラル陣営を代表する皮肉家のマイケル・ムーアも、たしか同様の表現でトランプを呼んでいた。

本書の記述にもとづけば、サイコパスとソシオパスはほぼ同様の人格的特徴をあらわす言葉のようだ。心理学・生物学といった立場から病因の遺伝的要因を重視する研究者は「サイコパス」、社会学・犯罪学などの立場から病因の後天的な環境による形成を重視する研究者は「ソシオパス」と呼ぶ傾向が強いとのことである。

トランプの政治的主張への嫌悪感にもとづく偏見やミスリーディングが相当に混じっている可能性もあるとはいえ、次代の米国大統領についてのこうした視点からの理解が可能であることは覚えておいて損はないだろう。



サイコパスはもともと、悪事への罪悪感や他者への共感性が極度に低いある種の犯罪者の人格を説明するために生まれた、診断上の概念であった。ただ、近年の研究の進展によって、政治家や経営者といった高い決断力や判断力を必要とされる職業の人々にも、サイコパス的な気質の持ち主が多いことが明らかになってきているという。事実、本書の出版前にも下記のような記事が出ている。


 
本書はカナダの犯罪心理学者、ロバート・ヘアの説を引用したうえで、サイコパスには「標準」「操縦」「男性的」の3タイプが存在すると述べる。この3者はいずれも罪悪感や良心の呵責・共感能力の欠如という「情動」の特徴こそ共通しているが、その他の面において違いが認められるという。

すなわち、「標準」型は「情動」のほかにも、「対人関係」(他者を利用し、不誠実)、衝動性(常に刺激を求め、無責任で計画性がない)、反社会性(犯罪や非行との親和性を持つ)といったすべての因子を併せ持つ標準タイプだ。一般にサイコパスとしてイメージされる連続殺人犯などは多くがこれに該当するだろう。

いっぽうで「操縦」型は特殊であり、「情動」「対人関係」の特徴はサイコパスそのものだが、「衝動性」や「反社会性」はそれほど強くない。政治家や経営者になるような、社会的に成功をおさめていくサイコパスは多くがこのタイプである。一見すると魅力的で多くの取り巻きを持つが、内心は野心と自己愛だけに満ちており、他人を騙して利用し尽くしても良心が痛まない――と、どこかで見たことがあるような性格の持ち主だ。

最後の「男性的」型は、「情動」「衝動性」「反社会性」を併せ持つが、本人に魅力が薄く他者を利用する能力が低いタイプとなる。当人の能力が低いのにやたらに居丈高で攻撃的で、弱者いじめを好むという。いかにも魅力に欠けた人格だが、田舎の半グレのヤンキーなどによく見られそうなタイプである。

この分類が正しいとすれば、おそらく毛沢東やトランプは「操縦」型のサイコパスに該当するのだろう。

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もっとも、本評を読んで少なからぬ方がすでに感じているのではと思うが、特定の人物を対象とした安易なサイコパス(もしくはソシオパス)認定は、政治やビジネスの世界における敵対者へのレッテル貼りや、一種のヘイトクライムとして機能し得る性質もはらむ。一見、客観的に見える医学や社会学の衣をまとっているだけに、この種の言説の持つ危険性は非常に大きい。

トランプはサイコパス。習近平はサイコパス――。これはまだいいかもしれない。

安倍晋三はサイコパス、小池百合子はサイコパス――。確かに各人当てはまる部分もあるかもしれないが、軽々しく言ってよいものか。

俺の商売敵はサイコパス。選挙の対立候補とその支持者どもはサイコパス。○○教徒や△△人にはサイコパスが多い――。ここまで来ると実に危ない。

本書はなかなか興味深く、またサイコパスという人格類型そのものも、私たちの知的好奇心を強く刺激する存在だ。ただ、あえて本書の問題点を指摘するなら、上記に言及した危険性についての著者の目配りが、全体的にそれほど充分ではないように思える点だろう。

本書は読みやすく、誰でも手に取れる一般書だ。ゆえに、その内容がはらむ「毒」が、非専門家たちにとっても恣意的に使いやすそうな形で提示されている点はちょっと心配になる。

危険水域の線引きは、実に難しいものなのだ。


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※上記はメルマガ「つれづれ亜州観望記」2016年11月22日配信号のコンテンツの一部を再編集したものとなります。 

【Q&A】袁世凱の政権と現代の中国の共通点って何?

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※下記はメルマガの原稿を再編集したものです。

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Q.初めてお便りいたします。安田さんが学生時代に所属されていたという、立命館大学東洋史研究会というサークルで2014年度の会長をつとめたTと申します。サークルの室内に置いてあったご著書を読んで連絡させていただきました。

せっかくですので、先輩に東洋史について質問させてください。「1.袁世凱はなぜ帝政をおこなったのか?」「2.日本の近代化は上手くいったのに、どうして中国の近代化は上手くいかなかったのか?」「3.中国共産党はなぜ歴史問題に執着するのか(するように感じられるのか)?」以上の三点です。よろしくお願いします!(T 20代男性)
 
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A.Tさんはじめまして。往年の立命東研はいかにも中国史を扱うサークルらしく、外敵の侵入(新左翼セクトの乗っ取り未遂)や女禍(「オタサーの姫」によるクラッシュ)など様々な事件で滅亡しかけていましたが、いまだに社稷を保っておられると聞いて嬉しい限りです。私の身には非常にハードな質問が飛んできましたが、自分なりに頑張って答えてみることにします。

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Q1.「袁世凱はなぜ帝制をおこなったのか?」。1911年の辛亥革命で清朝が倒された後、大総統の地位についた袁世凱は、やがて「中華帝国」の皇帝になろうとしましたが、志果たせずに計画を撤回して死去しています。なぜわざわざそんなことをしたのでしょうか?
 
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A1.近年、香港の反中国共産党デモなんかに行きますと、しばしば「愛字頭」と呼ばれる北京当局のフロント団体がカウンターデモの動員をかけられている光景を見ることができます。

また台湾でも、緑色陣営(台湾自立派)系のデモに対して、国民党マネーによる動員とされる青天白日旗を持ったデモ隊がよくカウンターデモを仕掛けています。2014年春のヒマワリ学運の際に、国民党支持者の警官の家族らが「カーネーション運動」という、学生に立法院占拠からの撤退を呼びかける運動を起こしたこともありました。

ほか、一九八九年に中国本土で天安門事件が発生した際に、北京郊外の農村で、デモ学生たちから退陣を求められていた党高官の李鵬の支持を主張する怪しげな農民デモが組織されたこともあります。

近現代の中国(中華圏)における為政者や体制側政党は、この手の人為的な大衆動員を通じた「民意の偽造」を好んでおこなう傾向があるようです。

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 ↑2015年5月31日、香港で開かれた天安門事件追悼デモにカウンターを仕掛ける親中国派の「市民」。安田撮影。


こうした中国的な民意偽造運動の発明者は、私が知る限りおそらく袁世凱でしょう(古くは新朝の王莽も似たような民意偽造をやりましたが、大衆動員は袁世凱からです)。

彼は一九一五年末に帝位につこうとした際、カネで人をかき集めた「請願団」(なかには妓女やホームレスで組織されたものもありました)を各地に多数作らせ、それをまとめた組織である全国請願聯合会の名義で帝政開始の請願書を議会に提出させることで、即位が「民意」を得ている根拠としました。

こうした怪しげな手法を用いての即位ですから、袁世凱の帝制施行は100%クリーンな性質のものとは言えません。彼の個人的野心も否定できないはずです。


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↑袁世凱。現在でも中国・台湾・日本など各国で、一般的には評判がよくありません。



ただし、大国・中国は当時から現在に至るまで、国家の統治にあたって常に強力な政治体制が必要とされてきたことも、一方で事実だったりします。

特に当時の場合、政情は辛亥革命前の期待に反してさっぱり安定せず、対外的にも欧米日の列強にあなどられる状態が続きました。「強い中国」の確立は、袁政府はもちろんのこと、孫文ら革命派にも共通した望みでした。

そこで袁世凱は強い国家を作るために、ごく数年前まで中国に存在したそれなりに効率的な統治システムである専制体制(=帝制)を選択したという側面もあるのです。

一九一五年夏、袁世凱の帝制の可否をはかる観測気球として、お雇い外国人であったアメリカ人行政学者のF・J・グッドナウが中国の帝制復活を主張する文書を新聞紙上に発表しました。やがて袁世凱の部下の楊度(結構な知識人です。ちなみに読みは「ようたく」)たちもこれに共鳴し、中国の立憲君主制の確立を求める籌安会という社会団体を作りました。

グッドナウの主張は強烈です。中国はその特殊な国情ゆえに欧米民主主義の直接的な適用は避けられるべきであり、中国の独自の政治発展の道がある(→ゆえに一定の専制体制が必要だ)といったことを言ったのですから。

中国の一般人民の政治知識は不十分であり、すくなくとも現時点の彼らは共和制を担う能力が欠けている、ゆえに立憲君主制でいけというわけです。

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↑ グッドナウさん。本業では有名な人で、名前をググるとさりげなく日本の公務員試験に出題されていたりします。


これは20世紀初頭の欧米人エリートらしい、アジア人への偏見や植民地主義が露骨にあらわれた意見でした。しかし一方で「孫文死後の国民党と共産党の争いや人民共和国内の激しい権力闘争の歴史を知る我々は、これを人種差別の暴論だと素直に笑えない部分がある」(引用元:『中国の歴史10 ラストエンペラーと近代中国』p191)こともやはり確かです。

事実、孫文は帝制にこそ断固反対でしたが、グッドナウの主張には一定の理解を示しています。事実、孫文が唱えた三民主義もまた、主権在民を実現させる前に「訓政」という過渡期概念を設定することで、孫文と中国国民党による国家の「指導」(事実上の専制統治)を肯定するものでした。

中国の一般人民を政治を任せられない愚民であると考えて、賢人やストロングマンの専制を志向した点で、実は孫文と袁世凱の本質的な違いは大きくないのです。

また日本のシナ学の泰斗である内藤湖南も、帝制には大反対ではありましたが、当時の中国に帝制回帰の機運があることは認識していました。袁世凱がやろうとしたことは、単に結果的に失敗しただけで、目指した考えは当時の中国の問題解決策としてはそれなりの説得力と妥当性を持っていたと考えていいでしょう。

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↑袁世凱が建国しようとした「中華帝国」の国章。ちょっとかわいい。



それどころか「特殊な国である中国に欧米民主主義を直接的な適用すべきではなく、中国には独自の政治発展の道がある」という往年のグッドナウの主張の根幹は、現在の中国共産党が自国で民主制の導入を拒否する際の決まり文句としてそのまま残っています。中国共産党もまた、袁世凱や孫文とあまり違わない国家観をもって、いまなお中国を統治しているわけです。

こう考えてみると、袁世凱の振る舞いは、野心家が犯した時代錯誤の愚行! といった解釈だけで見るのは必ずしも正しくありません。

むしろ袁世凱は、後年に国民党や共産党が採用する統治形態を「ちょっと早めに」やりたかっただけとも言えます。ただ、それが早すぎたがゆえに、彼が構想した専制体制の形は、前時代の皇帝制度の外見をとることになりました。彼の失敗の原因は専制を選んだからではなく、その体制に「皇帝」を持ち出したからであるにすぎないのかもしれません。

余談ですが、袁世凱は例の21か条要求の件をはじめ、帝制を敷く際に日本の内閣の意向に翻弄されたり、ブレーンに(反帝制派ですが)坂西利八郎という日本軍人がいたりと、なかなか日本との縁が濃厚です。Tさんは日本史専攻だったとうかがいましたが、日本史の側面から袁世凱を眺めてみるのも面白いかもしれませんよ。



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※上記はメルマガ「つれづれ亜州観望記」2016年11月22日配信号のコンテンツの一部を再編集したものとなります。 
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カテゴリ:
安倍政権にひれ伏す日本のメディア
マーティン・ファクラー
双葉社
2016-06-24



<構成>
はじめに
第一章 安倍政権のメディア・コントロール
第二章 メディアの自壊
第三章 ネット右翼と安倍政権
第四章 権力VS調査報道
第五章 失われる自由
第六章 不確かな未来
おわりに

<簡評>
日本との縁が20年以上におよぶ、前ニューヨークタイムズ東京支局長、マーティン・ファクラー氏の著書。『イギリス人アナリスト 日本の国宝を守る』のデービッド・アトキンソン氏しかり、私はこの手の「知日派ガイジンが書いた現代日本評」を読むのが結構好きである。

本書もまた、海外メディアの目から見た日本のメディアの問題点を鋭くえぐる。おそらく時事的な影響もあって、タイトルは「安倍政権もの」だが、安倍政権の話は実質的には全体の四分の一くらいだ。

本書の論調のすべてに賛同するかはさておき、さすがはNYタイムズというべきか。着実な取材を下敷きにして確固たる記者の主張を出していく文章は、同業者の末端につらなる者としてはなかなか勉強になる本だった。

◆◆

読後の個人的な感想としては、「メディアを弾圧する安倍は悪い」「したたかな強権主義者である」という印象はあまり強く受けなかった。むしろ突出して感じられたのは、サラリーマン的で横並び思考が強いとされる日本の大手メディアのふがいなさというか、弱さだ。

安倍政権の振る舞いは、トルコのエルドアン政権のように確信犯的に民主主義を一部無視し、異論者に対して荒っぽく棍棒を振り回しているとまでは言えない。第一次政権時代にメディアのバッシングで「潰されて」、やがて2009年に自民党が野党に転落する端緒を作ることになった苦い思い出への反省もあるのだろう。彼らはおおむねルールぎりぎりの枠内で、あくまでも"それなり(当社比)"にしたたかなメディア対策を講じているに過ぎない。

ただ、日本の大手メディアが「お豆腐」すぎるため、政権側が棍棒どころか指でそっと押しただけでグシャッと潰れてしまっているというのが、より正確な実態であろうと思う。

◆◆

少なくとも既存の大手メディアについては、おそらく今後も、お豆腐がレンガに変わるような事態は起きない。なぜなら、この「お豆腐」化は誰に本質的な責任が帰せられるとも言えず、組織や社会全体が無意識を重ねて作り出したものだからだ。

「日本だからこういうもの」という性質の代物は、問題の存在が認識されても誰も解決の方法を知らない(もしくは、解決策を知る人がそれを実行できる立場に就くことがまずない)ため、外国人がトップにでもならない限り、短中期的な変化は不可能である。

私たち庶民に必要とされることは、日本のメディア改革を訴えることではなく(やっても無駄だからだ)、彼らがお豆腐であることを明確に認識したうえで信用できる情報を選び取るセンスを個々人で育てていく賢さを身に着けることではないかと思う。

◆◆

本書は全体的に良質だと思うが、人によっては序盤部分は微笑ましさを覚えるかもしれない。現在の日本国内では、やや「引かれた」扱いを受けがちな某識者やテレビ番組の失脚や苦境が、「安倍政権のメディア弾圧」の事例として挙げられているからだ。

これは外国人ジャーナリストが他国の政治問題に切り込もうとした場合に陥りがちな、普遍的な罠でもある。今回は「アメリカ人記者→日本」というパターンだったが、「日本人記者→中国」「日本人記者→台湾」といった構図でも同じことはよく発生している。

外国人の立場からは、一見すると「気骨の人」や「正論の担い手」に見える人物が、現地のバランス感覚のある常識的な人たちから相手にされていなかったり、場合によってはトンデモに近いような扱いをされていたりする事例は、枚挙にいとまもないほど数多い。

例えば、昨今の日本における香港の「本土派」の取り扱い方や、中国の一部の民主活動家の取り扱い方なども、上記のパターンに含まれるものがあると言っていいだろう。

海外の政治問題をフラットに報じることは実に難しい。本書を読んで再認識する次第である。



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※上記はメルマガ「つれづれ亜州観望記」2016年11月08日配信号の原稿を再編集したものとなります。

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